乳がんとは|乳癌の症状、しこりや石灰化について解説|石灰化にマンモトーム|乳癌の治療|東京の江戸川病院 乳腺外科・乳腺外来

「ガッツだぜ」

ガッツだぜ私の研修医生活が始まりました。

外科の研修医、一番の下っ端です。

患者さんの全てのコールが私に来ます。

心身ともに乗り切るには「ガッツ」が必要でした。♯当時、流行っていました。

 

 

 

「ポケベル」

ポケベル病院から持たされました。

365日、24時間、連絡が直ぐに取れなくてはいけません。

「ピーピーピーピー」

「公衆電話どこかな? 早く病棟へ電話しないと。」

 

ランニング中でも、常に「今、ポケベルが鳴ったら… あそこの公衆電話へ駆け込もう」といつも考えながらが習慣となりました。

 

「公衆電話」

公衆電話今ではひっそりと姿を消しつつある公衆電話。あの頃を思いだすと感慨深いものです。

「ピーピーピー」鳴り続けるポケベルを片手に、公衆電話を探して、ウロウロ。

 

やっと見つけた公衆電話様!「神々しく」見えました。

お疲れ様でした。

 

 

○CMFの時代

乳癌を取り巻く環境には「大きな変化の波」が幾度となくありました

 

私の研修病院は「地域の中核病院」でした。(小さな市でしたが…)

町中の全ての患者さんが集まっていた筈ですが…、乳癌は本当に稀でした。

年に10例もありませんでした。殆ど印象に残っていません。

 

その当時は「サブタイプなどなく」術後治療は極めて単純なものでした。

「リンパ節転移がなければ」タモキシフェン(ホルモン感受性を調べる事もなく)

「リンパ節転移があれば」抗がん剤 CMF UFTなど

(一般)外科医が、片手間に診療していました。

 

その当時、術後の抗ガン剤は手術翌日に点滴していました(懐かしのCMFです)

抗ガン剤は手術後、期間を空ける必要は無いのです。

♯現在は「抗がん剤の選択肢が多い」ため、「病理結果が全て出揃ってから」が、すっかり習慣となっているのです。

 

 

私が「乳癌」を専門に決めたのは「(一般)外科の研修」が終り、「大学院生として医局へ戻ってから」でした。

その当時は「外科の中で(どちらかと言えば)乳腺をより専門にする」程度の感覚であり、到底「乳腺外科」として「乳腺だけを診察する日が来ようとは!」全く考えてはいませんでした。

当時、乳癌患者さんがこれほどまでに増えるとは誰も想像していなかったのです

 

乳癌患者さんが増加する中で、その診療は「サブタイプの登場」により一変することになります。

そして「St. Gallen (International Breast Cancer Conference)」乳癌診療はますます複雑化の一途を辿り、完全に一般外科医の手を離れることとなるのです。

 

★次回は「CMFの時代からアンスラサイクリンの時代へ」を紹介します。